『このあと どうしちゃおう』 ヨシタケシンスケ著 ブロンズ新社
知人にこの絵本の著者の個展を紹介していただきました。
原宿の小さなギャラリーでしたので、そんなに人はいないだろうと思っていたら、次から次へと人がやってきて、すごい人気の作家さんなんだなぁと思ったのであります。
小さなギャラリーにちょっとした人の列が出てきていたのですが、その先のゴール地点にいるのが著者の方でした。風貌は、僧侶。インチキ霊媒師でも、きっと「あなたの前世はお坊さんです!」と断言するに違いないというくらいの僧侶系。
そんな横顔を有り難く拝みながら作品を見ていきました。
並んでいた作品の一つが、『このあとどうしちゃおう』の原画。
ユーモアがありながらも、どこか余韻が残る絵の雰囲気は、まさに僧侶系の醸し出す技なのか。
この絵本は、おじいちゃんの終活ノートの発見から始まる。
終活ノートなんて言うと、誰々に遺産をどれくらいとか、自分のお葬式には誰々を呼んで欲しいとか、なんだか辛気くさい話しが並んでいそうです。
しかしおじいちゃんの終活ノートは、死んだらこんな感じかなぁとか、死んだらこんなこと出来るかなぁとか、そんな楽しいことばかり。何だかその願望がクスッと笑える。本当は悲しいはずの死なのに、なぜか明るい感じだったりする。
でも、本当におじいちゃんは死を受け入れていたのだろうか?
孫は自分の終活ノートを書こうとしてみる。
すると孫はあることに気がつく・・・。
この最後の数ページは本書の肝(きも)であるので、ネタバレは避けますが・・・。
人は誰でもいつか死にます。
死を避けることは出来ません。
しかも高齢化社会にあって、本来避けられない死を、自分の意思とは関係なく引き延ばされたり、また、いつまでも生き続けることを前提で生きてしまったり。そうして年金のことなどを気にしながら生きなくてはいけないとか、なんだか冷静に死を受けとめることが難しくなると言う、変な世の中になっています。もちろん最後まで責任を持って生命を全うすることは尊いことであり、生きる意欲を失ってはいけないのですが、でも、どうなんだろうか・・・。
と、作品とは関係のない方向へ話が進んでしまった・・・。
死と言うことを見つめることは、実は今の生き方を考えることでもあります。
私も40代の半ばを通り過ぎ、そろそろ人生も半分だなぁと思っております。つまり人生も半分だなぁと思う時点で、自分の死というものを意識しているわけであります。そうなると、これからどうしようかと、今の自分の自分なりの可能性を感じるわけであります。今さらサッカー選手になることは無理だし、サッカーの監督になることも不可能。でも、今の仕事をもう一度引き締めてやっていくことはいくらでも出来る、この治療方法を若い世代にも教えるとか、そういった次の世代というものを意識したりもする。
こうやってバトンを受け渡しながら、人生は次々と繋がっていく。
世代を重ねて人間がは生き続けてきた、そのバトンを受け継いでいるのが今生きている自分。そして今度はまた自分がバトンを次に渡していく、こうして“生きる”ことが繋がっていく。
著者の前世はお坊さんなのかどうかは知らないけれど、この絵本は、ちょっとそんな生命を見つめる哲学的なところもあります。
孫のために買ったと思った絵本が、実はおじいちゃんのための絵本だったりするような、そんな感じの面白い感覚の絵本です。
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